日刊レーニン66号(7月24日)
100 年前の本日。労兵・農ソビエト執行合同会議は、右派=軍事独裁派と左翼=革命派を押さえ込むために「絶対無制限の権限」を政府に与える決議を繰り返していたが、今日ケレンスキーに「無条件で無制限 […]
日刊レーニン65号(7月18日)
100 年前の本日。 18日、ケレンスキーはコルニーロフを軍最高司令部に任命した。陸軍省総務長官にエスエル右派のサーヴィンコフ、軍最高コミサールにエスエル右派のフィロネンコを任命。この2人はケ […]
日刊レーニン64号(7月12日)
100年前の本日のレーニン。レーニンはラズリフ駅の小村に身を潜めた。レーニンは、ジノーヴィエフを伴って9日の夜に郊外の小さい駅からペトログラートを脱出していたのだ。 ペトログラー […]
日刊レーニン60号(7月4日)
100 年前の本日。ボルシェビキが労働者・兵士にデモを呼びかける一方、政府は「あらゆる武装デモを無条件に禁止する」という声明を発表した。政府と全ロシア中央執行委員会はデモの弾圧のために前線の部隊 […]
日刊レーニン59号(7月3日?)
ソビエト両執行委員会、つまり社会協調派は「一切の示威行動は革命に対する裏切り行為である」という宣言を採択した。メンシェビキは武装デモを口を極めて非難した。「街頭には革命的な人民がいるが、彼らは反革命的な活動に従事している […]
日刊レーニン58号(7月3日?)
100 年前の本日。朝、機関銃兵第1連隊は連隊総会を開いた。街頭行動が協議され、総会議長のボルシェビキのゴローヴィンは行動を延期しようとしたが、兵士をいらだたせるだけだった。そこにブレイフマン […]
日刊レーニン57号(7月2日)
100年前の本日。臨時政府のカデット4閣僚が辞任した。ウクライナ中央ラーダ総書記局(ウクライナの事実上の自治政府)に大幅に譲歩した協定を閣議で承認したことへの反発だ。真の理由はチェルノーフなどの協調主義者が大衆を抑え込む […]
日刊レーニン56号(6月29日)
100年前の本日のレーニン。レーニンは、全ロシア・ソビエト第1回会議(6月3?24日)の激闘を闘い抜いて体調を崩した。レーニンはフィンランドの別荘に移って休養をとる。レーニンはいつもそうだ。党大会や重要な会議の後は、張り […]
日刊レーニン54号(6月22日)
100年前の本日のレーニン。レーニンは「エスエルとメンシェビキは革命をどこへ導いたか?」を『プラウダ』に掲載した。「彼らは、革命を、帝国主義の従属へ導いた」「大衆は自分自身の経験で学びとるであろう」と、レーニンは18日の […]
日刊レーニン53号(6月18日)
100 年前の本日。 40 万人の人間がマルス広場をめざすデモに出た。そのソビエトのデモには、連立をくんでいたブルジョアジーばかりでなく、それまで重要な位置を占めていた急進インテリゲンツィアも欠席した。参加したのはほとん […]