日刊レーニン80号(9月4日)

    100 年前の本日。ペトログラートのソビエトと労働組合は保釈金を集めてトロツキーを釈放させた。ケレンスキーは追い詰めれトロツキーを釈放せざるを得なかった。軍事法廷検事シャブロフスキーの調査委員会はケレンスキーがコルニーロフの反乱に関わっていた事を示していた。コルニーロフとの戦いにおいてもソビエトとボルシェビキに助けられたケレンスキーは、トロツキーをはじめとしたボルシェビキを投獄し続けるには無理があった。

しかし同時に、ケレンスキーは「対反革命闘争委員会が政府権力にきわめて重大な援助を与えた」ことを認めつつ、同委員会の活動停止を命令した。ケレンスキーはボルシェビキの指導部が保釈されて、同委員会の活動を通じて武装蜂起が準備されるのを恐れたのだ。

しかし、対反革命闘争委員会ーーそれは社会協調派が多数を占めていたがーーは下からの強い圧力をうけ、ケレンスキーの命令に従わないことを決定し、全支部に滑動の継続を命じた。ケレンスキーはこれを黙認する以外なかった。

日刊レーニン78号(8月29日)

    100 年前の本日。労兵ソビエト執行委員会はクロンシュタットに首都への派遣を要請した。クロンシュタット・ソビエトはこれに応じて直ちに3千人の部隊を送る。朝には、クロンシュタットの部隊が到着し始める。 首都からきた労働者の集団がコルニーロフ派部隊の兵士と接触した。接触から、交流、相互浸透が始まる。リガ救援のためとか、首都のボルシェビキの殺戮行為を止めるためと聞いて動員されていた兵士たちは労働者に説得され動揺した。集会も始まった。「われわれは騙されたのだ」という声が大きくなる。政府とソビエトを支持する師団が次々と現れていった。

日刊レーニン第77号(8月28日)

    100 年前の本日。労兵ソビエトと農民ソビエトの両執行委員会合同会議が開かれ、コルニーロフとの闘争において「政府を最も精力的に支持することを約束する」ことを決議した。この決議を実行するために会議は「対反革命人民闘争委員会」をつくった(メンシェビキ、エスエル、ボルシェビキ各3人)。闘争委員会は、両執行委員会、労働組合中央、ペトログラート・ソビエトからの3政党の特別代表で構成された。モスクワなど他都市のソビエトも同様の機関をつくって反コロニーロフ闘争を開始した。 ボルシェビキは対反革命闘争委員会のなかで少数を占めていたにすぎなかったが、圧倒的な影響力を発揮した。首都の戦闘的革命的労働者を組織し、軍隊工作を担い、闘争委員会を活性化させたのだ。この委員会は間もなく「革命防衛委員会」と改称される。

    ケレンスキーは最大の動揺していた。コルニーロフに反対する側の力量についての最大の疑念。閣僚は辞任し、顧問、友人たちも次々に冬宮を去っていた。

    しかし、すべてはケレンスキー抜きで動き出していた。

ボルシェビキの圧力のもと、7月闘争後解体されていたペトログラート赤衛隊を復活させ、労働者を武装することが決定された。各地区には、赤衛隊に加わりたいという人々の長蛇の列ができた。対反革命闘争委員会は、食料配布など首都の行政にも関与した。

ペテルゴーフ地区ではプチーロフのマンモス工場が抵抗の拠点になった。急遽、戦闘中隊が編成される。工場は昼も夜も操業された。プロレタリアートの砲兵師団を編成するために新しい大砲が組み立てが行われた。

鉄道労働組合であるヴィクジェーリは、コルニーロフ軍のペトログラートへの進軍を阻止するために線路をはずしたり、障害物を築いたり、サボタージュに打って出た。郵便・電信局の職員は大本営からの電報や命令をおさえ、あるいはそのコピーを委員会に届け始めた。金属工組合は、自分たちの組合の事務員を防衛委員会に提供し、多額の資金を委員会に提供した。運転士組合は、郵送・技術手段を委員会に提供した。印刷工組合は、住民に事態を周知させるために、月曜の新聞発行を数時間で手配し、報道機関に関する統制を実施した。

今や、コルニーロフの反乱は労働者・兵士にボルシェビキへの誹謗中傷の意味を完全に理解させた。それはクーデターの準備に必要な要素だったのである。目が見えるようになった労働者や兵士は、激しい恥辱の念にとらわられた。ボルシェビキに対する罪悪感をともなったその気分から、党に対するゆるぎない献身とその指導者にたいする信頼が生まれていった。

防衛委員会の仕事は、目覚めさせたり、訴えたりするより、むしろ登録したり派遣したりすることが仕事になった。委員会の計画はつねに超過遂行された。

    さらに昼、巡洋艦「アヴローラ」の水兵たちは、非番の時間にクレストゥーィの監獄へ向かった。監獄に捕まっていたトロツキーを訪ねたのだ。「そろそろ政府を逮捕する時期ではないだろうか?」―面会者は訪ねた。トロツキーは答えた。「いや、まだその時期ではない。ケレンスキーの肩にライフルをすえて、コルニーロフを撃つのだ。そのあとでケレンスキーを始末しよう」

日刊レーニン76号(8月27日)

100 年前の本日、朝、 ケレンスキーはコルニーロフに「ルコムスキー将軍にポストを渡し、直ちにペトログラートに来るように」と電報を打った。さらに、大本営と将軍らに「ペトログラートとその郊外へ進撃する部隊は前進をやめ、元の駐屯地に引き返せ」と命令した。    コルニーロフもルコムスキーも命令を拒止した。コルニーロフは「ロシア人へのアピール」で、「いまや私は公然たる行動に出ざるを得なくなった。臨時政府はソビエトのボルシェビキ多数派の圧力のもとにドイツ参謀本部の計画と完全に一致して…軍隊を殺戮し、国を内部から動揺させつつある」と、ソビエトと政府の打倒を公然と宣言した。そして、首都に向かっている部隊に進撃を続けるように命じ、必要なら「臨時政府軍と交戦せよ」と命令した。

コルニーロフは参謀本部と前線の指揮官、圧倒的多数の将校、最良の下士官の信頼を得ていた。現に、前線の各方面軍総司令官はすべてこの反乱に参加した。連合国の支持も得ていた。コルニーロフの反乱は圧倒的に有利に見えた。

ケレンスキーは、コルニーロフ派の軍隊に対抗できる軍事力を掌握していなかった。ケレンスキーはソビエトに頼るほかなかった。コルニーロフと対決するためにソビエトに臨時政府の「無条件支持」を居丈高に要請した。

   コルニーロフと対決するために、夜遅く、労兵ソビエトと農民ソビエトの両執行委員会合同会議が極度に緊張した中で開かれた。

日刊レーニン75号(8月26日)

100 年前の本日。大本営はコルニーロフを首相に、フィロネンコ軍最高コミサールを外相に予定した。リヴォーフは夕方、ケレンスキーにコルニーロフの要求を伝え、権力の移譲を進言した。ケレンスキーはコルニーロフとの協定が不可能であることを悟り、彼との対決を決意した。ケレンスキーはリヴォーフをその場で逮捕し、「私はやつらに革命を引き渡しはしないぞ」と財務大臣のネクラーソンに叫んだ。いまや互いにヘゲモニーを握ろうとすれば相手を倒す以外にないところに達した。 夜、カデット4閣僚がコルニーロフに同調して辞任した。閣議はケレンスキーに全権を委任した。ケレンスキーはただちにコルニーロフを更迭することを決定した。さらにケレンスキー自身は政府に対して、「全権力が完全に自分個人に与えられるという条件でしか」コルニーロフの反乱と闘えないと考えると宣言した。

一方、ボルシェビキの党中央委員会は労働者・兵士にこう繰り返した。「いかがわしい連中が…わが党の名をかたって挑発的なアジテーションをおこなっている」。ペトログラート・ソビエトや労働組合や工場委員会の指導機関は同じその日、いかなる労働者組織も、いかなる政党もいかなるデモも呼びかけていない、と声明した。それにもかかわらず政府の転覆が迫っているという噂が片時も静まらなかった。コルニーロフ派はボルシェビキのふりをして決起を誘い、それを口実にした革命派の弾圧、一掃をしようという陰謀を計画していた。

日刊レーニン74号(8月25日)

    100 年前の本日、コルニーロフは政府との仲介者であるリヴォーフ前宗務長官(前首相リヴォーフとは別人物)を通じて政府に「最高総司令官に軍事・民政の全権力を引き渡せ」と要求し、ケレンスキーを副首相に、サーヴィンコフ陸軍省総務長官を陸省にしたいと述べ、両者が大本営に来るように提案した。2人にボルシェビキからの安全を保障し、保護してやろうと申し出た。 また、前日の 24 日にコルニーロフから「特別ペトログラート軍司令官」に任命されたクルイモフ将軍―彼は革命化した首都守備軍と労働者の武装解除、ソビエトの解散、クロンシュタット守備隊の武装解除という任務を与えられていた―は、 25 日ペトログラート、クロンシュタットなどに戒厳令を布告した。コルニーロフ派の行動が開始された。

しかし、ボルシェビキは時期尚早だとして大衆行動を極力抑止していた。

日刊レーニン73号(8月22日)

100 年前の本日。ケレンスキーは、サーンヴィンコフに指令を与えてモギリョーフの大本営に派遣した。その指令は?大本営における将校の反革命的陰謀を一掃する?大本営の政治部を廃止する?ペトログラートとその周辺地域をコルニーロフの司令下から政府の司令下に移し、戒厳令下におくことへの同意をコルニーロフから得る?臨時政府をあらゆる攻撃、とりわけボルシェビキの急襲から防衛するために、騎兵部隊をペトログラートに送ることへの同意をコルニーロフから得ることであった。 ケレンスキーはコルニーロフが計画している反革命反乱の共謀・共犯者だったが、2人の間の権力争いが激化する。 19 日にはコルニーロフが「ペトログラートを私の管轄下に置くことを要求する」という電報を送ってきた。ケレンスキーは、事件が展開する一定の段階でコルニーロフが勝利したら自分たちも放り出されるに違いないと感じた。

ケレンスキーは首都の革命的労働者を粉砕するために、また政府が大本営の手中に陥らないようにし政府の軍事的独立を保つために、騎兵部隊を必要としたのであった。

一方、レーニンは機関士の協力をかりながら機関車の罐焚(かまた)きの助手に変装し、深夜から早朝にかけてペトログラート―ヘルシンキ線の機関車に乗っていた。ロシアとフィンランドの国境を越えるあいだ、レーニンは、機関車の隅で煤にまみれながら石炭をくべるふりをしていた。フィンランド領のテリオキに着くと、レーニンは気軽く地面に飛び降りて、機関士と握手をかわしてから、護衛のラヒヤを従えてフィンランドの首都、ヘルシンキに向かった。

日刊レーニン72号(8月18日)

    100 年前の本日のレーニン。レーニンは『陰謀のうさわ』を書く。レーニンは『ノーヴァヤ・ジーズニ』第 103 号(8月 17 日付)を見て驚く。内容は要約はこうだ。ある軍人のグループが、モスクワの若干の社会層の共鳴のもとに断固たる反革命的行動を組織しているといううわさが8月 14 日に広まったとして、中央執行委員会(すなわちメンシェビキとエス・エル)の代表の参加のもとに都市の保安の必要を知らせる方策をとったらしい。この準備工作には、多くの部隊内で影響を持っているモスクワのボルシェビキの代表たちもひきいれられた。ボルシェビキにとっては、この機会に部隊に公然と近づく道がひらかれた。とあった。 レーニンは、ボルシェビキが「反革命防止」のためにメンシェビキとエスエルとブロック、同盟、協定があったと考えた。レーニンは「うわさ」はたわごとであり、むしろメンシェビキ、エスエルが「革命を擁護しようとしている」かのように描き出し、革命を裏切り、反革命分子と同盟している事実をもみ消し、忘れさせようとのぞんでいる攻撃だと思った。そうであればこのブロック、同盟、協定は明らかに8月初旬におこなったロシア社会民主労働党第6回大会の決議違反だ。「メンシェビキは、最後的にプロレタリアートの敵の陣営に移ってしまった」と決議している。レーニンは信じられなかった。現情勢下では、方針は平和時の方針=「すべての権力をソビエトへ」ではなく「臨時政府打倒の権力奪取」だ。レーニンは『陰謀のうわさ』で、 12 日のモスクワストライキでの労働者・兵士の圧倒的な高揚、労働者・兵士のボルシェビキへの支持が勝ち取られている事を書きながら、このブロックの根底的な批判をする。

しかし、次の添付をつけて。この共同の機関の詳細な事実の調査。

レーニンはモスクワでの情勢は的確につかみながらも、秘密革命委員会(のちに、軍事革命委員会)の重要性を把握できなかった。

またこの日、ペトログラートでは、ペトログラート・ソビエト常任委員会が死刑廃止の要求を賛成 850 、反対4(チヘイゼ、ツェレテーリ、ダン、リーベル)の圧倒的多数で決議し、臨時政府?コルニーロフ派に反撃した。

日刊レーニン68号(8月3日)

    100 年前の本日。レーニンは第 6 回大会により、憲法制定議会候補者に選出された。7月の反動から7月末までにはペトログラートの各工場でボルシェビキの影響は回復されていた。ヴォロダロスキーは7月 27 日には、「工場では我々は絶大な、無限の影響力を持っている」とボルシェビキの第6回大会で報告した。その時、青年同盟は5万のメンバーを数え、次第にボルシェビキの影響に入りつつあった。 また、クロンシュタットも傷を癒やしつつあった。艦隊全体でも変化は起こっていた。激しい左翼化とボルシェビキへの共鳴が見て取れた。7月末のゲルシンクフォールス代表の意見は興味深い。「小型の艦船ではエスエルの影響は大きいが、大型の軍艦、巡洋艦、戦艦では、水兵はみなボルシェビキかそのシンパである」。ペトログラート、モスクワでは次第に労働者、兵士のパニック、麻痺状態が消え始めた。

日刊レーニン67号(7月26日)

100 年前の本日。第 6 回ボルシェビキ党大会が半ば非合法的に開催され、メジライオンツィ(トロツキー派)と合同した。レーニンは「スローガンについて」というパンフレットを書いて大会を指導した。レーニンは、権力はブルジョア反革命の手中に移り、現在のソビエトは裏切りを犯し、破産し崩壊したと判断した。「全権力をソビエトへ」という「革命の平和的発展スローガン」を引っ込め、「反革命派に対する決定的闘争〔武装蜂起〕」によって「革命的プロレタリアートが国家権力を独自にその手に握らなければならない」「この新しい革命の中で、ソビエトは出現できるし、またかならず出現するであろうが、それはいまのソビエトではなくて、ブルジョアジーとの協調の機関ではなくて、ブルジョアジーとの革命的闘争の機関である」と提起した。こうして大会は武装蜂起を直接の課題とする戦略への転換を決定した。 ボルシェビキ(当時 24 万人)は、メジライオンツィ(当時4千人)との合同によって、十月革命とソビエト政権の中で活躍する多くの有能な革命家を獲得する。

また、兵営や工場ではボルシェビキ狩りの反動によって、かえって兵士と労働者は左に傾いた。党の加盟者は著しく増え、社会革命党が左右に大きく割れ、左派の方がボルシェビキに次第に近づいた。

これにより、ボルシェビキは農民の獲得にも手が届きつつあった。